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初期のKodak

1879年当時、ロンドンは写真とビジネス業界の中心でした。George Eastmanは、印刷板コーティング機の特許を取得するためにロンドンを訪れました。翌年には米国でも特許を取得しました。

1880年、販売用の乾板製造を開始し、 このベンチャー事業の成功を好感したビジネスマンのHenry A.Strongは、この立ち上がったばかりの未熟な事業に多大な資金を投入しました。

1881年1月1日、EastmanとStrongはEastman Dry Plate Companyという名前で会社を共同設立しました。その年の後半、Eastmanはこの新会社の事業に専念するために、それまで務めていたRochester Savings Bankを退社します。彼は会社の事業運営をあらゆる方面で意欲的にこなしながら、写真撮影の手軽さを追求するための研究を続けました。


1884年にEastman Dry Plate and Film Companyが設立されました。

1883年、Eastmanはロールフィルムを発表し、続いて市販されているほぼすべてのプレートカメラに適応できるロールホルダを発売して業界を驚かせました。1888年にはKODAKカメラを世に送り出し、写真撮影が一般の人々に普及するための基盤を築きました。

KODAKカメラは、100回分の露光に対応できる十分なフィルムをあらかじめ搭載し、容易に持ち運びができ、手で持ちながらの撮影を可能にしました。価格は25ドルです。露光後は、カメラ本体がRochesterに返却されます。そこでフィルムの現像、写真プリント、新しいフィルムの入れ替えが行われ、この一連のサービス料金は10ドルでした。

1884年、EastmanとStrongはパートナーシップを解消し、14人の株主を持つ新会社のEastman Dry Plate and Film Companyが設立されます。その後継企業であるEastman Companyが設立されたのは1889年です。

1892年にはEastman Kodak Companyと社名変更し、同年、Eastman Kodak Company of New Yorkが組織されました。1901年には現在のEastman Kodak Company of New Jerseyが同州の法律に基づき設立されます。

Eastmanは、次の4つの基本原則に従って事業を築きました。

  • 低コストで大量生産
  • 国際販売
  • 大規模広告
  • お客様重視

Eastmanは、この4つがすべて密接に関連していると考えていました。大量生産は、広域販売が行われない限り実現されません。そして、販売には強力な広告のサポートが必要です。彼は当初から、顧客ニーズと要望を満たすことが会社を成功に導く唯一の道であるとの思想を社内に浸透させました。

このビジネスの基本原則に次のポリシーが加えられました。

  • 研究を続けることによって成長と進化を助長する
  • 従業員が自尊心を持てるよう公平な扱いをする
  • ビジネスの確立と拡張のために収益を再投資する

Kodakの歴史は、これらの基本原則とポリシー展開のおける進化の1つです。

低コストで大量生産

Kokak設立当初、Eastmanは写真の道具を多くの人々にできる限り安い価格で提供するという理想を強く抱いていました。その後、急速な事業拡大とともに大規模な生産が必要不可欠になりました。フィルム製造のための精巧な道具とプロセスを生み出すことによって、この若い会社は、高品質の商品を一般大衆の手の届く販売価格に据え置き製造できるようになりました。

1896年、10万台めのKODAKカメラが製造されました。フィルムと写真印刷用紙は、月に約640キロメートルの速さで生産されていました。当時、KODAKのポケットカメラの販売価格が5ドルでした。この価格に満足していなかったEastmanは、簡単で効率よく操作できて価格が1ドルのカメラ開発に取り組みました。その結果1900年に、のちに人気商品となるBROWNIEカメラ製品ラインの第1号の商品が発表されました。

1900年の雑誌に掲載された、人気のBROWNIEカメラの雑誌広告
1900年の雑誌に掲載された、人気のBROWNIEカメラの雑誌広告

世界販売

Eastmanが1880年に乾板事業を開始する以前、ヨーロッパの人々は写真に大いに関心を寄せていたものの、実際に写真を手がけるのは主に専門家に限られていました。

Eastmanは、世界にアマチュア写真家市場の潜在性を認識していました。Eastman Dry Plate and Film Companyが米国で設立されてからわずか5年後、ロンドンに営業所が開設されました。それから数年間、特に、KODAKカメラとEastmanによる簡単な撮影手法が紹介されて以来、写真撮影の人気が高まり、多数のアマチュア写真家を輩出しました。

1889年、米国以外の国々でのKodak製品の販売を手がける、Eastman Photographic Materials Company, LimitedがイギリスのLondonで法人化されました。当初はすべての商品をRochesterで製造していましたが、 ほどなくして海外および国内を合わせた需要が工場のリソースを上回るようになり、

London郊外のHarrowに新たな工場が建設されたのが1891年のことでした。1900年までには、フランス、ドイツ、イタリア、その他のヨーロッパ諸国における販路が確立されました。日本での販路については検討中で、カナダで設立されたCanadian Kodak Company, Limitedの下では工場建設が進められています。

現在、Kodakは南北アメリカ、ヨーロッパ、およびアジアに製造拠点があり、Kodak製品は世界中で販売されています。